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事例1  競売を回避した洋品店店主の話

東京郊外のH市。市内随一の商店街で40年以上商売を営む島村さん(仮名)の話である。
藤原のところに島村さんから相談があった。平成14年の夏のことだった。
「藤原さん、借金が2億をこえて、どうにも首がまわらない。何とか力を貸してくれないか・・・」

事情といきさつを聞いてみた。

島村さんはH市の中心的な商店街に、昭和34年に自宅兼用の洋品店を開いた。時はまさに高度成長期にはいる時期で、周辺人口は爆発的に増え始めた。島村さんの町のそばに、有名な大企業の工場が進出してきたこともあり、街は工場で働く人々や、新しく流入してきた住民たちで活況を呈した。商店街は黄金期をむかえた。夕方や土日ともなると商店街の通りは買い物客でごった返し、島村さんの店では昭和50年代になると、30坪の住居付店舗だが大売出しともなると一日100万以上売り上げることも珍しくなかった。
頭が切れてやり手の島村さんは、金回りもよく、次々に女を作り、飲み歩き、わが世の春を謳歌していたようである。夫人は島村さんの遊びに悩ませられながらも内助の功で夫を支え続けてきた。

島村さんは商店街で頭のよさ、押し出しのよさで一目も二目もおかれる存在だったので、商店会長、商工会理事を永年勤めあげて商店街の振興にも骨を折り続けてきた。したがって、地域の有力者でもあり、島村ファンが沢山いたのも事実である。
昭和40年代、50年代の商店は、高度成長の中で小ぶりだが豊かな生活を実現できた時代だった。朝から晩まで働き、休みは少ないけれど、真面目に商売をやれば、家一軒とアパートの一、二軒くらい建てられたし、、子供たちも大学に全員進学させることができた。

しかし、そんな右肩上がりの時代はいつまでも続かず、、バブル崩壊とともに島村さんの「幸せな商店主ライフ」はゆっくり幕を閉じはじめた。徐々に破滅の階段を下り始めたのだ。売上は日に日に低下し、平成13年ころには一日10万の売上はおろか、一日2〜3万という日すら出始めた。夫人はノイローゼ状態に陥り、島村さんはさらに借金を重ねる悪循環に陥っていった。


きっかけは、商品相場に手を出したことだった。
平成に入り株や土地値は暴落し始め、店の売上も下がり始めたころ、店番をしていた島村さんのところに先物取引の会社の営業マンが訪れた。
「社長、儲かりますよ」「よしわかった!」(ホントはよくわかっていなかったのだが・・・)
丁寧に説明する営業マンに好感を持った島村氏は、先物取引の怖さよりも、勝負にかける潔さに自分らしさを見出すタイプで、ポンと300万投資することになった。

最初儲けさせてくれるのがこの手の商法の定石なのだろう。いい気になって、深みにはまっていった。

気がついたときには、銀行、信用金庫、クレジット、カードローン、サラ金、商工ローンはおろか、子供の貯金、女房の親戚からの借り入れ、
近所の商店仲間(十人以上)、商工会の職員、などなど収拾のつかない借金の山が築き上げられていた。

失敗の原則その1・・・銀行金利の倍以上の金利のカネに手を出し始めたら倒産の危険信号がついたも同然
店舗兼自宅の土地家屋(30坪)の実勢価格は、地価の下落により、ピークの1億円から時価3000万以下になっていた。信用金庫の一番抵当権だけでオーバーローン状態。地元のA信金からの借入だ。リスケも再三行ったが、それでも売上があまりにも落ちているので焼け石に水。そのA信金の借り入れ残高1億だからどうにもならない状況になっていた。

しかし、商工ローンや信販会社など、支払いが遅れると矢のように催促してくるとろについつい先に返済してしまのが人情だ。島村さんも、本来ならリスケすれば払える信用金庫の返済を「毎月の返済40万が多すぎて払えない」という単純な理由で止めてしまった。そして商工ローンなどの「「うるさ方」をせっせとマメに返済していた。店番をしている最中に、取立てに来る商工ローンの担当者にはどうしても負けてしまうのだ。

失敗の原則その2・・・借金を、催促のうるさいところから順番に返済してしまう

信用金庫の支払いを止めて数ヶ月がたつと当然のように、「このままでは競売ですね」という信組融資担当者からの言葉があった信用金庫に日参してなんとか「競売をさけてもらえないか」と泣きついた島村さんだった・・・が、時すでに遅し。信金の態度は頑なで、窓口の融資担当者の対応はなすすべがなかった。
困窮した島村さんと藤原は、ある晩、安い居酒屋で一杯やりながら、作戦会議を開いた。
いろいろと二人で知恵を絞り、なにか信金を攻略する良い方法はないか、探っているうちに、いつしか昔話になった。
「昔はよかったよー、売出しをすりゃあ、面白いように50万も60万も売れて、次の日に信用金庫の外回りが集金に来ると、鼻高々で預金したもんだよ。若い職員はまわってくると、お茶やみかんなんかを出してな。積み金を付き合ってくれといわれりゃあ、『じゃあ5万、今月から10万』と、右から左につきあってやり、面倒みたもんさ・・・」
「島村さん、そのころの外回りの人は、いまいくつぐらいですか?まだいるのかなあ」
すると、島村さんの顔が変った。
「そういやあ、藤原さん、あのころの外回りは出世して、今じゃ本店でずいぶんえらくなってるらしいよ」
「その人に連絡取れませんか?」
「よし、だめもとだ!あした連絡してみますよ」

翌日、島村さんから藤原に電話があった。
「藤原さん、大変だ!なんと昨日話題になった昔のそとまわりの○○君てえんだが、本店の副理事長になってる!
電話に出てくれてねえ、昔世話になったと昔話に花がひとしきり咲いたんだよ。それでね、今競売になりかけて困っているという話をしたら、
一度訪ねてきてくれ、というんだ!」
「すごいですね!助けてくれるかもしれませんよ」

失敗の原則その3・・・借金の優先順位を考えず、返すのが大変なところから止めてしまう

数日後、信金の本店を訪ねた島村さんは、興奮した声で藤原に電話をしてきた。
副理事長は、次のように提案してくれたとのことであった。

「社長、お元気そうですね。本当にお久しぶりです。
私が、まだ駆け出しの新米の信組マンだったころ、社長にはずいぶんお世話になりました。そのころのお礼といってはなんですが きちんとした返済計画書をだしてくれれば、競売を取り下げるように取り計らいましょう。
でもこの話はくれぐれも内密にしてください。また、取り交わした返済計画書にしたがって、きちんとお支払いをしてください。
守れないときは、申し訳ないんですがまた競売になってしまうと思います。
いままでより減額して、毎月40万のところ、毎月15万で結構ですから。ぜひ今後約束を守ってくださいね。」

島村さんの誠意ある対応も効を奏したのでしょう。また、信用金庫という地域密着の金融機関は、街の人々、商店や事業所あっての自分たちの存在があることを認識しているのでしょう。

島村さんは、長い間、自分の商売だけでなく、地域商業のために尽力し続けていました。わが街を発展させようとして、商店会長、商工会理事、振興組合の組合長として頑張り続けた島村さんの熱意あふれる姿や若き日の副理事長に暖かく接してくれた思い出は、きっと入社ほやほやだった若き信組マンの心に焼き付いていたのでしょう。

冬の雨の日に,ずぶぬれになって重たい自転車をこいで集金に行くと、奥さんがタオルを貸してくれ、熱いお茶をふるまってくれる。

そんな昔の絆が、島村さんの競売を回避してくれたのです。







事例2 家賃を37万円を20万円に負けてもらったレストランの話

        

埼玉県の郊外レストラン経営者の事例である。

いまから2年前の秋。藤原に一本の電話が入った。
「藤原さん、不況や狂牛の病で客離れがひどく、どうにもならない。資金繰りも火の車だ。
力を貸してくれないか」
「わかりました。直ぐ行きましょう」
藤原は愛車をとばして関越自動車道を走り、小川町のとある郊外レストランを訪ねた。

レストラン3店舗を経営し、1995年ごろには年商2億を超えていた真鍋さん。年齢はちょうど50歳。
埼玉県の地方小都市での年商2億は、ちょっとした成功者だ。個性派レストランとして業界紙の取材をたびたび受けたり、飲食組合の要職についていた真鍋さんは、充実した毎日をおくっていた。二人の子供は国立大学に合格し、マイホームも持ち、何の不自由もない多忙だが幸せな生活を送っていた

そんな日常を揺るがす大事件が真鍋さんの身に降りかかっててきた。狂牛病の発生だった。

ステーキや肉料理を主体にした洋風レストランとして地域のファミリー層をがっちりつかんでいた真鍋さんの三つの店は、連日報道される狂牛病のニュースに、見る影もないほどに客足が遠のいていった。

真鍋さんは、地元農家から約300坪のロードサイドの土地を借り、店舗建物は自社物件として立てて店をオープンした。事業用借地契約を結びスタートしたわけだが、平成6年にスタートしてからの3〜4年は1000万近い月商をあげたこともあった。ところが、狂牛病の発生で、売上はほぼ半減。最悪時には月商が200万円台というありさまとなってしまったのだ。

毎月の地代37万も滞りがちになり、ついに最大7ヶ月の遅れとなってしまった。当然、資金繰りは全体的に悪化しているので、銀行の返済、リース・クレジットの支払いもすべて遅れていたし、肉の仕入れ、米屋や酒屋の支払いも相当にツケができてしまい、仕入れが出来なければもはや店の料理も出せなくなってしまうという逼迫した状況だった。大きく借りていた銀行のひとつがそのころつぶれて、債権がRCCにいってしまったものもあった。

家賃の遅れの話に戻るが、売上はさっぱり、開店休業のように暇な日々が続き、真鍋さんの心は焦燥感がつのるばかりだった.
すぐ裏に住む地主さんは、真鍋さんが7ヶ月も家賃を未納しており、借地契約の解約事由に相当するにもかかわらず、沈黙を保っており、何も言ってこない。そのことが真鍋さんにはかえって不気味だった。しかし、でてけといわれたらどうしよう、そんな不安も当然24時間脳裏から離れず、夜も眠れない日々が続いていた。

「地代の値下げに応じてもらいましょう!そして新会社を作り、新会社でその店を引き受けましょう。」 藤原が切り出した。「えっ、でも7ヶ月も遅れているんですよ。その上負けてもらうなんて・・・ずうずうしくて言い出せませんよ。」真鍋さんは、考えられないといった表情で切りかえした。「真鍋さん、遅れているからこそ、全ての経費を見直す必要があるでしょう。それから、近隣の事業用借地の地代の相場が坪当たり月額いくらか、それも調べてください!」
「わかりました。」それからすぐに、真鍋さんは近隣の貸し店舗(ロードサイド)のテナント募集を探し、いくらぐらいででているのか調査を開始した。すると、直ぐに驚くことが判明。500メートルほどはなれたロードサイドで、郊外型レストラン撤退のあとのテナント物件があった。そこは、駐車場も建物も、真鍋さんの物件より1.5倍も広いのに、地代(家賃込み)は、なんと25万円。真鍋さんが今借りている37万円よりはるかに安い!さっそく、交渉を地主さんと開始することにしたが、遅れている地代を一回きれいに払わないとなかなか交渉のテーブルにつけそうにない。そこで、なんとか真鍋さんは他に支払う予定だった資金を全て見直して約200万の資金を用意。一週間後、藤原と真鍋さんは、地主の家にお願いに上がったのである。

地主さんの家に上がる前に、藤原は真鍋さんと入念な打ち合わせに入った。「真鍋さんまずは今後の支払い計画書を見せて説明。次に、家賃引き下げの依頼書をお見せして、これこれしかじかで37万を20万にしていただきたい。そういったら、とにかく誠意を示すために、頭を下げたら下げたままでじーっとして下さい。そして『ありがとうございます』ということ。・・・・・」「わかりました。いうとおりにします。」そういって
二人は地主の家に入った。埼玉県の豪農といっていいであろう。立派な床柱や梁が大地主の屋敷なんだということを物語っている。五十がらみの市役所づとめの地主は、座敷でこわばった表情で我々を迎えた。いよいよ勝負だ。

真鍋さんがかしこまって座りながら口を開いた。シナリオどおりにまずは座敷で正座して、深々と頭を下げる二人。「このたびは厚かましいお願いをお聞きくださり、本当にありがとうございます。」アタマはさげたままだ。

地主は当惑したようにいう。「ありがとうったって、まだ返事したわけでねえんだから。」
みせた書類には、家賃引き下げのお願い、37万から20万へ、としたためてあり、現状が不景気や狂牛病問題でいかに厳しく大変かを記したものや、近隣の家賃相場が下落している証拠となる資料、今後の経営改善努力を列挙した文面が並んだ。そして遅れていた分の200万が入った封筒も・・・

藤原と真鍋さんが頭を下げたまま、沈黙の時間が流れた。異常に重苦しい時間が続く・・・
すると、沈黙にたえかねるように、地主が声を発した。「まあ、あたまをあげなよ・・・気持ちも事情も分かったよ・・・ただ二週間ほど時間をくれねえかい」

それからちょうど二週間が経過し、地主の顧問弁護士を通じ、正式に家賃を20万に引き下げる旨を承諾する回答があった。


藤原 注  この話は、実際には、一部の所有土地の任意売却による債務の無担保債務化,保証協会サービサーとの交渉、4年も放置していたRCCとの交渉、新会社設立(真鍋さんのケースは藤原の指導の下、自力で会社の設立登記しました)、営業譲渡、リスケなどさまざまな手法をつかって解決に至っていますが、長くなるので省略。藤原義塾の勉強会に参加したり、コンサルティングを受けることをオススメします。  (了)



事例3  「負担付贈与」の裏ワザで借金だらけの本社賃貸ビルを名義換えして残した社長の話

東京都八王子市に在住の人形店経営兼ビル経営者、岡田さん(52歳・仮名)の実話である。

岡田さんは、八王子市内の旧甲州街道に面した老舗人形店の御曹司。江戸の末期から続くこの店は、地元では知らぬものがない名店だ。しかし、百数十年続く老舗の6代目が、バブル崩壊で大きな落とし穴にはまってしまった。
ご存知のように、八王子は古くから宿場町として栄え、特に旧甲州街道は大店が軒を並べてかつては繁栄を極めた。しかし、八王子周辺は都市化の波や、道路の整備に伴う旧商店街の空洞化が進み、旧甲州街道の両サイドは、中心部といえども苦戦が続き、シャッター商店街と化している。
1988年ごろから、そういう商店街の歯抜けが徐々に始まっていた。またプラザ合意後の日本経済の大きな転換期にはいり、バブルの胎動が始まった時期でもある。都心の地上げブームや新宿への都庁移転とともに地価の値上がりが都心部から連鎖的に郊外に広がり、中央線沿線の地価は徐々に西に向かって上昇し始めていた。

岡田さんは、当時まだ36歳。法政大学卒業後、はやばやと専務として家業を切り盛りしてきたが、父が早世したため、34歳の若さで社長に就任。100年以上続く本店の土地は、八王子駅から100坪以上あり、市内の子安町には80坪の豪邸、そして西八王子の駅のそばにアパートがあり、本業の年商は6億円。岡田さんの年収は常時2500万をこえ、青山学院大をでた美人の夫人と二人の子供に恵まれ、まったく何不自由ない暮らしぶりだった。やがて地価上昇の波は八王子周辺に及び始め、駅前や商業地は一坪2百万から3百万だったものがあれよあれよと坪1千万、1千5百万へと上昇を開始した。旧甲州街道あたりの土地も坪1千万を軽く超えるようになり、やがて都市銀行はじめ地元金融機関が岡田さんに甘い融資の勧誘を開始する。「社長のところは坪1千万として100坪で十億の資産価値がありますから、今なら掛け目10割で融資できますよ。利回りのいい賃貸ビルが出回っていますから投資でお買いになってはいかがですか。うちなら十億まですぐご融資します。ほら、神奈川県の厚木市に利回りのいいビルがあるんですよ。ビル1棟で六億円。少し小ぶりですが40坪で6階建て、賃貸収入が年間約4500万が見込めます。利回りが7.5%です。こんな出物は滅多にないですよ。表に出ていない物件ですが、うちなら満額でご協力しますから。神奈川県○○市なら、これから土地の値上がりもさらに期待できますしね。」
こんな甘い誘惑に、まだ36歳の岡田さんは、こんなチャンスは二度とないと思いこみ、6億円の賃貸ビルを購入することに決めたのでした。
さらに、本店は木造の古い店舗だったが、これも賃貸ビルとして建て替えて地上7階建てとし、1階だけは老舗の家業店をそのまま営み、2階以上は賃貸ビルとする計画にも着手した。これには当時64歳の父親も「将来は家賃が年金代わりになるしな」と銀行への返済、固定資産税を差し引いても手元に100万程度毎月残りそうだと云う皮算用で大賛成し、これもまた都市銀行のお世話になり約5億の建て替え費用を全て借入で行うことになった。      


      
このように、銀行の勧めるがままに不動産投資だけで11億、事業の運転資金1億合わせて12億の借金を抱えることになった岡田さんの会社であったが、バブルの絶頂の頃は珍しい話ではなく、むしろ八王子の周りの人々や同業者から羨望のまなざしで見られ、岡田さん親子は浮かれて気持ちで日々を過ごしていた。厚木のビルもすべて入居者が埋まり、予定通りの家賃が入ってきていたし、八王子の本社ビルも真新しい新築のビルには完成と同時に入居者が次々に決まり、なんの問題もなくすべては計画通りに進んでいた。
ところが、1991年から92年あたりから地価高騰の波が一服したような気配が漂い始


事例4  フランチャイズ競業避止義務違反を上手に乗り越えたフランチャイズ事例。

とある外食フランチャイズオーナーさん。複数店舗を経営する有力オーナーさんだった。ある本部の過失(食中毒事件)により、チェーン全体が大打撃を受けることになった。その食中毒事件はテレビ、新聞、ラジオ、ネットで津々浦々に流れた。そのチェーンの看板を掲げているとお客様が入ってこない。加盟店の経営は客離れでぎりぎりまで追い込まれることになった。 そんなときに、このオーナー、鵜川社長は藤原義塾に駆け込んだ。藤原はこの鵜川さんの会社の部長に就任し(短期的な就任)、本部との交渉に赴いた。そこで藤原があらかじめ提案していた「ある方法」を鵜川社長に伝えておき、本部に話した。その提案はすべて受けいられ、鵜川社長は見事にそのチェーンから離脱に成功しオリジナルの看板を掲げて営業できることになった。違約金も一切発生しなかった。現在も鵜川社長は、オリジナルの形態で四つの飲食店を経営し、繁盛している。





事例5  コンビニを中途解約でも違約金ゼロでやめることができたお話

とある大手コンビニオーナーさん。仮にお名前を川田さんとしておこう。神奈川の郊外で、三大コンビニのひとつとフランチャイズ契約し、開業した。物件は本部からの紹介だった。「いい場所ですから!」と本部はやけにその場所を勧め、いわれるままにそこで開業することになった川田さん。しかし、開業してみると、日販45万くらいは最低でもいけます、という本部の説明とは裏腹に、日販35万前後をうろうろ。 毎月の資金繰りはギリギリで、持っていた貯金1000万円を切り崩し次第に貯金も底をついていった。子供たちがまだ二人も学生のため、教育費にも大きなお金がかかったことも重荷となっていた。何より店の利益が少なすぎて、先行きへの不安が日々大きくなっていった。ある日、その物件が、もともと三流コンビニが赤字で撤退した跡地だったことが川田さんの耳に入った。寝耳に水だった。 「三流コンビニが赤字撤退した後なら、いくらうちのチェーンでも売れるわけないな・・・」 このことを本部の部長などに問い詰めた。 「なんでそんな大事なことを隠していたんですか!」 しかし「いや別に隠していたわけでは・・」 と、どの役職ものらりくらり。 本部への不信はますますつのっていった。 更に輪をかけて起きたのが、近隣への最大手コンビニ出店だった。ここは平均日販自体が10万以上も多い。コンビニの巨人だ。自分の店から300メートルしか離れていない畑地に、大きなセブンイレブンの出店が決まった。「だめだ、これ以上の経営の継続はムリだ。貯金はみんな無くなり、借金が増えることになるだろう」川田さんは、藁にもすがる思いで藤原義塾に連絡した。 日本橋の面談室で初めて藤原に会うと、スーツ姿のまじめで丁寧に話を聞いてくれる藤原に安心感を抱いた。 「できるだけすぐにコンビニをやめられるように、そして違約金がゼロになるようにしましょう」 藤原がそう話してくれて、川田さんは藤原にかけてみようと思ったそうです。 それから1か月で店は閉店し、違約金の交渉は半年かかりましたが、希望通りゼロになった。コンビニを経営している間は欝々とした気分につつまれていた川田さんでしたが、コンビニを無事に卒業し、いまは自分の好きな趣味の時間も取りつつ新しい仕事に打ち込んでいらっしゃいます。





aoyama.fcq@rapid.ocn.ne.jp  送信フォームはこちら


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